形になるからこそ 拾える気持ちがある。

形になるからこそ 拾える気持ちがある。

自然の風景を眺め綺麗だと感じること
国内外の建築物を見て迫力を感じること
アートにふれ感動すること

それらは過去の恩恵でもあると思うようになった。
時間をかけ木々が芽吹き、生態系によってつくられた景色。
各々の職人、アーティストが膨大な時間と技術を注ぎ完成された造形物。

現代は技術の進歩で、昔よりも効率良く出来る事も増え
今だともっと早く完成するモノも多いだろう。
しかし簡略化出来るのは比較できるモノ、参考となるモノがあるからで
やはり過去の功績は大きい。

当たり前に感じている過去からの恩恵を消費しながら
次の世代に何を残すのか。
ネットを介するからこそ、これまでになかった規模で迎える
時代の大きな分岐点。
大袈裟な表現だが、何となくそう感じている。

今回は「これまで」と「これから」の分岐点にいるように思える自身の在り方、進み方を書いてみようと思う。
つまりは、これからのajouterの向かう方向という事になる。

冒頭の文章の書き方を少しかえて

テクノロジーの進歩、簡略化出来る事や新しく創造出来る事
スピード感があり、新鮮な事象で溢れ始めた現在は

就労、日々の生活などジャンルを問わず様々な場面で
アナログとデジタルが混在する、変革の時期に突入しているように思う。


何かに対して説明や提案をする人が増えたぶん情報がわかりやすく手に入るようになり、昔とは違った選択肢も増えた。

逆にいうと情報が溢れすぎて、ひとつを選択してしまうとAIの判断により
同一方向の情報ばかりをキャッチしてしまい
他が埋もれてしまう危険性があるので情報の判断がより大切となった気がする。


ファッションについて書くと(あくまでも一般的にだが)
選択肢でいうと手間のかかる服と、そうではない服が同一に並んだと思う。

こだわった、丁寧、職人、伝統的。などのフレーズが常用化した事で
そのフレーズをさほど特別に感じなくなったし
ヴィンテージのフレーズが、ヴィンテージ以外にも常用化された事も同様だと思う。

そういった部分での特別感、差別化が薄れたことで
日常での利便性や、SNSで広がるトレンド、購入する事で感じるお得感(コスパ)が、より意識されるようになったと感じている。

作りの意味でのクオリティーや、カルチャー色でない部分。
ようは選択基準が、「”直ぐに”実感しやすい」モノへ移行したんだと思う。
それはブランドや年代を意識する事で満足を実感する、今の古着の楽しみ方にもあてはまる。

いつでもチェックできる画面越しの説明は
必要最低限の情報でわかりやすくまとめられていて
並べられた綺麗な写真や、雰囲気ある動画はファッションを身近に感じる。
こうやってファッションの楽しさを伝える手段も進化し、満足度は昔よりも高いのかもしれない。

TikTokのスピード感についていけてないのと同じように
これからの大半の事はきっと、若者に教わっていく。

そのスピードに必死にしがみつくのではなく
これからと、これまでのバランスを自分達なりに整えようと思い
取り組み始めたひとつが
店舗一部で展開している”偏愛”と名付けた雑貨コーナー。

「流れるように
新たなモノがつくられる時代
過去となり
忘れられていくモノたち

時代から零れ落ちたモノたちが
もう一度だれかに愛されるよう
そっとすくいあげる。」

わかりやすく、イメージしやすいモノが今の主流だと先に書いてはいるが
この偏愛シリーズは、その真逆。

いうならば、これまでに重点を置いた提案だ。

偏愛を仕入れるにあたり、様々な場所に赴き
様々な人と会話をする機会がより増えた。

そのひとり、70歳を過ぎたおじちゃんが言っていた
「あと数年も生きれれば良いほう、そのうち死んじまうから。」

アパレルでも、当時工場見学に行った際に
「もう廃業する事は決めてる、今は年金があるから生活が出来てる。」そんな話をしてくれた職人のおじさんがいた事を思い出す。

こうやって先人の引退や寿命と共に、無くなる技術や伝統品が数多くある。
これまでの日本を支えたモノや、誰かの人生を豊かにしたモノ。

スタイリッシュではなく、混みあった、よく言えば人間味が濃かった時代。
アナログ時代の最後の現場に立っていた、つくる人や、伝える人が居なくなるそんな分岐点の時代。

知る人間が居なくなった後に残されたモノは、
知らないからという理由で廃棄され、そのジャンルもなくなってしまう。

知識もあり、カルチャーを支えてきたおじちゃんが
今目の前で、当時のライカや、モンブランのレアモノと同様に
愛情を持って語ってくれているこの雑貨たちは
一般的に見れば興味がわかない、必要がないモノ。

こんなに面白いのに、カッコ良いのに。。。
そう考えると、自分たちのやりたい事が自然と思いつく。

伝統、細かな技術、こだわり。そういった部分も当然大切ではあるが
専門職でもなく、そのまま全てをすくい上げる事は不可能。
何よりも今の時代には合わず、重くなってしまう。

大切な部分を残したまま、私たちが出来る汲み取り方。
時には本来と違う使い方、自由な発想。といった事を含めた提案方法。

そう考え、思いついたのが
ラフな表現の何ちゃないモノ、「偏愛」。

つまり私たち夫婦がビビットきた、何ちゃないモノをピックしている。は
何でも良いわけではなく、最低限の条件をクリアしたモノたちという事になる。

先に書いたように、これからの大半の事はきっと若者に教わると思う。
だから私たちはこれまでを特に大切にしようと思う。


「これまで」には2つあって
ひとつは、これまでに製作されたモノや、そのバックボーンにある文化。そういった意味での、これまで。

そしてもうひとつは
これまで昔のセレクトショップにあった
決して万人受けではなく、店員の感覚やニュアンスが優先されたモノ。
その人が伝えたいと思うモノ、いうならば個性。そんな意味の、これまで。


個性よりも流行がメインとなっているというのは
流行のモノは誰でも提案ができ、それはセドリと言われるジャンルや、ネット検索すればヒットする件数からも理解が出来ると思う。


「形になるからこそ 拾える気持ちがある。」

偏愛シリーズだけでなく
当店が取り扱っているブランドに関しても言えることがある。

物資や燃料費の高騰、何よりも工場の廃業でこれまで以上に形にする事が難しくなった今は
これまでの基準で考える良い生地、良い縫製は皆が思っている以上に希少となっていく。作れなくなるモノがより増えていく。

努力や技術、思いは、可視化しにくく、複雑になるほど伝わりにくい。
私も全てに精通しているわけでもないし、どちらかと言うと広く浅くだ。
だがそんな私でも、様々な人が様々な形を成してくれたからこそ、拾える思い、気持ちがあった。

だからこそ強く思う。
今となっては贅沢品のような扱いになってしまったモノも
見向きもされなくなったモノも、すべからず誰かの人生を費やしたモノで
これからも選択肢のひとつとして残していくべきモノであると。

それは誰かの仕事に対価を払う事がきっと
自身の豊かな人生になると思うから。

ザッと例えると

美味しいと評価が高い、いつもの店で安定した味を食べ続ける事と
自身の好みにあった店を食べ歩き、時間と費用はかさむが
調味料や素材の違いにも目を向け、様々な味を知り選択肢を増やす事。
あなたにとっては、どちらがより豊かな人生となるのか。

いつの時代もこれまでのモノ、これからのモノは等しく
今を生きる人間の思考で形や評価を変える。

これからの時代、沢山ある選択肢の中からあなたは何を選んでいくのだろう。
沢山の類似品の中からではなく、其々に違いや面白みがあるモノ、其々に満足が高いモノを選んで欲しい。

大袈裟ではあるが、様々な選択肢を求めた人が楽しめる店舗であるように
私たちはこれからも自分たちの感覚と、これまで、これからを考えた提案をしていこうと思う。

先日のblogでも書いたように、表現が豊かとなる事を願って。

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